除目日誌

たのしい毎日

大学祭でAI民話を売った

大学祭でAI民話を売った。

 

表題のとおり、私を含む学生有志によって構成された同人(?)サークル「程程町観光協会」は、6月8日から11日にかけて開催された大学祭「名大祭」のフリーマーケットにて、AIによって生成された架空の民話集『程程町民話集』を頒布しました。

この企画は私が発起人であり、私が主宰する、音と文字とことばの間を泳ごうという啓蒙キャンペーン「ズャンボァッリスサ」の一環であるとともに、このような数奇で意味不明の活動に協力してくれた友人たちあってこその企画でした。当初計画より大幅に規模縮小ではありましたが、サークルメンバーの協力もあって無事出展を終えられ、大変感謝しています。

 

『程程町民話集』は、岐阜県のどこか(右の方と言われています)に位置する、程程町という小さな町に古くから伝わる民話や伝承を一冊の本にまとめたものです。程程町のおおまかな設定や民話の方向性などは人間であるわれわれ学生が考えたものですが、町にある地区の名前など町についての詳細な情報、また、民話の内容およびその口調など、基本的なことがらはすべて AI (GPT-4 一部に 3.5 を使用)に考えさせました。

AIによって書かれた民話集はおそらく世界初ですが、それはAIに民話を書かせたところで何の役にも立たない上、それが紛れもない事実として受け取られるからです。私も、AI民話がなにかの役に立つとは思っていませんし、役に立たせるためにこの出展に至ったわけではありませんが、ちゃんとこの企画には意義を見出していますし、現代社会への意見表明も兼ねた出展です。それについては後でまた述べることにします。本記事ではまず名大祭フリーマーケットにあって異彩を放っていた程程町観光協会の出展模様について軽く述べたあと、AI民話を通して伝えられる社会へのメッセージを記したいと思います。

 

さて、先述のとおり、われわれ「程程町観光協会」は名大祭フリーマーケットにて世界初のAI民話集『程程町民話集』を頒布しました。名大祭そのものの会期は6月8日の午後から11日までの3日半ですが、フリーマーケットは10日と11日のみの開催であり、さらに悪天候で11日のフリマは中止されたため、結果的には10日土曜日の6時間程度だけの出展となりました。しかしながら、学生をはじめとして多くの来場者の方にAI民話に関心をもっていただくことができ、さらにたいそう悪目立ちしたという意味で、名大祭にごく小さな引っかき傷ながら爪痕を残せたのではないかと思われます。

 

「程程町観光協会」のブース

台車とダンボールで空間を構成している

 

これが、「程程町観光協会」のブースです。

フリーマーケットの原義は「蚤の市 (Flea market) 」であり、「フリー」すなわち自由 (Free) なマーケットではありません。それにしても、この貧相な店構えは自由を通り越して無法と形容すべき状態であり、じっさい「アナーキー」であると評されました。名大祭の名誉のために言っておくと、ほかのブースではちゃんとテントや机を用意してハンドメイドの雑貨や不用品を並べており、まさしくフリーマーケットといった雰囲気でした。われわれ程程町観光協会は、同人誌頒布という名大祭フリマ史上例のない出展形態であること、(フリーマーケットの場において)出展者が学生であったということ、店構えの粗末さ、店番のサークルメンバーが鳴らすカウベルが思いのほか音が大きかったことなど、あらゆる点で異様というか、不審でした。

 

「民話いかがっすかー」

コッ コッ (カウベルを叩く音)

「世界初!AIが書いた民話でーす」

コッ コッ (カウベルを叩く音)

「板も売ってまーす」

 

やはり不審です。お客さんがなかなか来なかったり、ティーンを呼び込んでも怪訝な目で素通りされたのは、すべてこの店構えと奇っ怪な商品、呼び込みのせいでしょう。全部だめです。テントとか用意する時間と資金(主に後者)がなかったんです。反省点です。

「フリマってこんな雑でいいんだ」

実行委員をやっている友達が言っていました。ポジティブに捉えるのであれば、これは名大祭出展への心理的なハードル、すなわち言論と表現の場としての大学祭への主体的参加のハードルを引き下げ、大学祭で学生が表現する機会を増やしている行為を称賛していると捉えられます。ネガティブに捉えるのであれば……まあ、言うまでもないですね。

 

 

ところで、私がこのAI民話を通して伝えたかったことはなんなのでしょうか。

それは、新しい技術に目先の便利さを求めてしまいがちな社会への警告です。

ご存知のとおり、テキスト生成AIやそのサービス、とくにChatGPTは、ここ半年で急速に知名度を上げ、社会に浸透しつつあります。人力のテキスト生成と比べて圧倒的に短時間でそれなりの品質を仕上げられるテキスト生成AIは、たしかに多くの場面で活躍できるでしょうし、必要とされるでしょう。生成AIについて、今日ではその有効活用策がいろいろ模索される一方で、「悪用」への懸念も高まっています。

たとえば生成AIを大学生活で「悪用」する例として、最も危惧されているのはレポート課題や記述式試験での利用でしょう。無料の ChatGPT でも、驚くほどそれっぽいレポートを書くことができますし、司法試験や医師国家試験などの試験を解かせたところ合格点に達したというような報告もあります。これを危惧して、生成AI利用のガイドラインを策定する大学や企業もあるようです。

 

しかし、生成AIの「有効活用」も「悪用」も、人間が今ある仕事をAIにアウトソーシングして楽をするという意味で、根本的には同じことです。すなわち、AIをいかに「役に立た」せるか、そしてそれが為政者や管理者にとって都合のいいことかどうかばかりが取り沙汰されているばかりで、それではいけないのです。そもそも、生成AIを「なんでもこなせる万能ロボ」のような認識のまま議論に参加しているおじいさんたちが社会の主役では、まったくトンチンカンの意見が出されるだけであり、理解力と想像力に乏しいおじいさんたちによってもたらされる「AI社会」は、単に人間がやっていた非合理的な仕事をAIが置き換えるだけで、根本的な構造はなにも変わらないのが関の山でしょう。AI民話は(決して本意ではありませんが)、おじいさんのもつ「民話」という機能をAIが代替できる可能性を示したという点でおじいさんの立場を危うくしたと、そう言えなくもないでしょう。

 

そもそも、人間ができる仕事は人間にやらせればいいに決まっています。たとえばレポート課題でズルをしたいのであれば、ChatGPT にアクセスするまでもなく、同級生を脅すとかすればいいだけの話です。

 

もちろん、生成AIがもたらす影響として、今までの作業の「代替」という要素も大きなものとしてあります。しかし私は、AI民話の作成を通して生成AIのもつ「生成」という能力の可能性(と同時に現段階でのポンコツさ)を感じるとともに、その力を可能な限り引き出さねばならないと感じています。

 

ところでなぜ「民話」なのでしょう。『程程町民話集』は、端的に言えば「民話」というテイが「テキスト生成」の能力を引き出し、かつ現段階の「不十分さ」をカバーしうるコンテンツだという認識のもと作成されました。

ChatGPT の普及につれて、次のような不満が散見されました。

「質問に対して、事実と異なる回答を寄越す」

「発言の辻褄があっていない」

たしかに、ChatGPTの返事は時としていい加減です。しかし冷静に考えてください。彼らはあくまで「生成AI」であって、「なんでも知ってるロボット」ではないわけです。このような勘違いが生まれてしまうのは、ユーザ側の無理解もありますし、デベロッパやメディアの伝え方が不十分だったのかもしれません。しかしこのような状況──技術への不信感──を放っておいては、AIを活用したなんかすごい社会の実現などありえません。

AIになにができて、なにができないのか。彼らは今のところ「テキスト生成AI」でしかないわけであり、「なんかそれっぽいテキストを生成すること」が最も得意なはずです。そこで、程程町観光協会では民話に着目しました。民話は言うまでもなくはじまりから終わりまでのストーリーを構成しなければなりませんが、一方で長い年月を越えて伝わってきた民話は、時としてかなりいい加減で、辻褄がおかしかったり、話の内容が突拍子もなかったりします。この意味で、テキスト生成が得意ながらも内容の整合性には「不十分さ」がある現在のテキスト生成AIにとって、最も向いている分野が民話生成だと考えたのです。

 

民話生成はなんの役にも立ちません。別に立ってもいいのですが、われわれとして立てるつもりはとくにありません。しかし、生成AIの力を愚直に引き出そうとしたという点では、意義があると考えています。なにができてなにができないのかを見極めた上で、適切な仕事を割り振る。AIに限らず、人間のマネジメントでも同じことが言えるはずですが、技術に対して「過度な信頼」を抱いていては、うまくいくはずがありません。生成AIに未来を変える力があると信じているからこそ、彼らがなにをできるのか適切に理解する必要があるのです。

 

生成AIが本当に社会を変えるだけの力を持っているかどうかは私にはわかりません。しかしひとつ言えるのは、仮に生成AIが社会に変革をもたらすだけの力を持っているとして、それを「利用」し、実際に社会を変えられるのは(今のところ)わたしたち人間だけということです。自分たちが明日の社会を変える力を持っていると自覚していて、そしてそれを良い方向に変化させたいのであれば、目先の利益のために力を使う──それは根本的には何も変化させていない──ことは極力減らさなければなりません。

 

技術を「作る」のは技術者の仕事ですが、新技術を利用し、「技術のある社会」を作るのはユーザであり、それは紛れもなくわたしたちのことです。ここに、「理系」のみならず「文系」にも技術についての理解、具体的には技術が何を可能にし、なにができないのかについて、適切な理解が求められる理由があります。

 

生成AIをオルタナティブなものではなく、それ自体が価値を生み出せるオリジナルなものにする。AI民話はこのための利用としては不十分かもしれません(民話なら、おじいさんを召喚すれば良い)。しかし、誰も知らなかった世界を作るということと、AIが持っている能力、すなわちテキスト生成能力を愚直に実行した結果物を社会に還元するという意味では、なんらかの意味を見いだせるかもしれません。