除目日誌

たのしい毎日

主観的命名法

「名は体を表す」ということばがあります。名前は、実体を持つ(しばしばない場合もありますが)「もの」を、あくまでも抽象でしかないことばの世界へ引き摺り込むための道具であり、人間が、なんとか世界を理解しようと努力した結果生み出された、かなり主観的な概念です。

 

たとえば、冷蔵庫は、それが冷蔵庫という名前でなくともそこに存在し、ものを冷やし続けることができます。ものにとって、名前の存在はかなりどうでもよく、むしろ、名前というのは、私たち人間のためでしかないということになります。

 

このことから考えるに、名前は、ものがどのような性質を持っているかというよりも、それが私たちにどのような影響を及ぼすのか、それが私たちにとってどのような存在であるのかを記述する存在である方が、適当であるように思えます。

 

これを、さきほど挙げた冷蔵庫を例に考えてみると、まず、冷蔵庫は、私たちにとって冷蔵庫である存在ではありません。
いや、冷蔵庫は冷蔵庫だろうと指摘する向きもあるでしょうが、冷蔵庫を見ても、冷蔵庫という気持ちにはなりません。人間に冷蔵庫という感情はないからです。

 

では、冷蔵庫は、どのように名乗られるべきなのでしょうか。

 

冷蔵庫があると、食べ物が冷やせて嬉しい気持ちになります。

 

なので、「うれしい」と名乗られるべきです。

 

ここで注意ですが、「うれしい発生装置」ではありません。

 

なぜなら、発生装置というのは、冷蔵庫自身の持っている性質を説明する働きをもつことばです。私たちが世界を解釈するために使う道具を、冷蔵庫に押し付けてはいけません。もし、冷蔵庫を見て、発生装置という気持ちになるのであれば、発生装置と名乗られることを許容すべきですが、ふつう、人は、冷蔵庫を見ても、発生装置という気持ちにはなりません。なぜなら、発生装置という気持ちはないからです。

 

同じように、電車は、とても便利な存在です。
なので、便利と名乗られるべきです。

 

洗剤もまた、とても便利な存在です。
なので、便利と名乗られるべきです。

 

橋も、便利です。
便利と名乗られるべきでしょう。

食べ物一般は難しいところです。


まず一般論としてお腹いっぱいになれることはとても幸福なことです。食べ物は「うれしい」とか「幸せ」の範疇にあります。


しかし、私はセロリが嫌いです。


セロリはもちろん食べ物ですが、私にとっては「不快」です。セロリが好きな人には申し訳ないのですが、なぜこの飽食の時代にセロリのフード・チェーンが維持され続けているのか本当に理解できません。この意味で、セロリは、「意味不明」とも取れます。

 

主観的命名法の世界では、ラベルの重複や、同じものに複数のラベルを貼ることに対して、とくにお咎めはありません。

 

なぜなら主観は自由だからです。どのように感じても良いし、不正解はありません(正解もありません)。

 

最後に、日記を主観的命名法に基づいて書き直した例を挙げて、この記事を締めたいと思います。

 

 

 

◾4/11の日記

今日は朝早くに起きて電車に乗り大学へ行った。授業を受けてのち動物園に行ってラーメンを食べた。ゾウが鳴いていた。大学に戻って論文を読んだ。学食はいつも期待を上回らない。

 

 

 

◾主観的命名法による4/11の日記

[昔]は[苦しい][苦しい]に[嫌]して[便利]に[感情の伴わない行為]して[嫌すぎる]に[感情を伴わない行為]した。
[苦]を[嫌すぎる行い]してのち[楽しい]に[疲れる]して[ふざけている*1]を[義務]した。[尊敬する]が[パオン*2]していた。[そんなに嫌じゃないかも]に[疲れる]して[大変]を[疲れる]した。[なぜこのようなものが存在し続けているのか理解できない]はいつも[無駄]を[感情の伴わない行為]しない。

*1:値段の割に量が少ないため

*2:ゾウの主観