除目日誌

たのしい毎日

梅雨との付き合い方を考える

 先日6月14日、愛知県が梅雨入りしました。毎日のようにやってくる雨雲と湿気が、日に日に上がる気温と相まって、夏の不快さを呼び起こしてくれます。こうも雨が降っていては気も滅入りますが、わたしも一大学生である以上、雨が降ろうと大学には向かわねばなりません。大学の各建物の間には屋根がないので、雨が降れば、キャンパスは色とりどりの傘で彩られ、憂鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれる……ことはとくになく、地味な格好の垢抜けない人間が、垢抜けない色の傘を差す、じめじめとした大学となります。本当に気が滅入る大学です。もっとも、快晴の日であってもどんよりとしているのが、我が大学であり、やはりそこは旧帝国大学らしい一面なのだと思います。

 

 ところで私は、傘についてかなり懐疑的な立場を取っています。「反・傘」といっても差し支えないでしょう。傘の有効性、そして雨が降ったら傘を差さねばならない、というひとびとの思考停止が、どうにも気に食わないのです。もっといえば、合羽なども含む雨具全般に関して、不信感を抱いています。これら雨具がどのような問題を抱えていて、わたしたちはそれをどう乗り越えていくべきなのか、傘のもつ欠陥とわたしたち人間社会の側が抱える問題も踏まえつつ、傘を取り巻く非合理性を、これから簡単に説明します。

 

 そもそも、傘はどのようにして降り注ぐ雨からわたしたちを守ろうとしているのでしょう。傘の提示するソリューションはずばり、「小さな屋根をつくる」です。なんて馬鹿馬鹿しいのでしょう! 大きな屋根をもつ建物という文明がありながら、それでも外に出たいがために、わざわざ小さな屋根を拵える。まったく、屋根というものに囚われすぎ、屋根というものに頼りすぎです。また、傘には壁がありません。人間が傘を使うときは、すなわち雨の中を歩くときです。われわれは傘を差しながら、移動するのです。地面に向かって鉛直方向に落ちてくる雨粒。水平方向に移動するわたしたち。防御は上方向だけでよいのでしょうか? また、傘を差したことのある、社会経験の豊富な方ならお分かりでしょうが、傘は下半身、とりわけ足元の防御をはなから諦めています。傘を差して十分にその防御効果が期待できるのはほとんど頭部だけです。しかし、わたしたちが雨具に求めるのは、全身、そうでなくとも、可能な限り身体の大部分を防御することです。しかし傘は、わたしたちの身体を十分に守ることができません。傘を握っている手さえも、です。傘はそもそも、雨具として期待される効用を十分に発揮できていないのです。また、科学技術の進歩著しい現代にありながら、傘のかたちは昔からほとんど変わっていません。江戸時代の浮世絵に描かれる傘でさえ、一見したところ現代の傘とそれほど変わって見えません。この進歩のなさは傘が防雨に関して完璧な形状を持っているからではなく、性能として不完全であるにも関わらずその進歩を放棄した、向上心のなさと怠惰さによるものであることは明らかでしょう。防雨・防水を求められるものでありながら、その機能を果たしていないばかりか、その進歩すら放棄した、弾劾されて至極当然な道具なのです。

 また、傘はそれ自体「不十分な雨具」であるだけでなく、わたしたちの社会にも多大なる悪影響を及ぼしています。たとえば、雨の日に電車に乗ると「傘のお忘れ物が多くなっております」というようなアナウンスを耳にすることがあります。わたし自身も、傘をどこかに忘れてしまったことが多々あります。傘は、雨の日だけわたしたちの手元に現れるゲストです。物質的には他者でありながら、わたしたちのイメージを形作るのに寄与する服や靴、アクセサリーなどとは違い、傘はいつでも切り離し可能な、一貫して「ゲスト」としかなり得ない存在なのです。こうしたきわめて外部的な傘の性格が、多くの忘れ物を生み出し、多数の忘れ物を処理する側の面倒と、ビチョビチョにならざるを得ないひと、無駄なビニール傘への出費が生じてしまうのです。そのひとつひとつは小さな損失ですが、降雨は広範囲に起こる現象です。そのため、降雨範囲全体で生じる損害は、きわめて大きなものになると言えます。さらに、傘はわたしたちのマナーの悪ささえも顕にします。傘をぶつける、人を濡らす、股間を攻撃する。そもそも折りたたんだ傘を持っているシルエットは、現代禁じられているはずの帯刀に酷似しています。傘は雨の日のおでかけに平穏をもたらす、平和の道具なのでしょうか? それとも、人を傷つけ、社会の悪を象徴する、暴力的で物騒な道具なのでしょうか? 考えるまでもなく後者ですよね。

 

 以上で示したのは、傘のもつ欠陥と不利益のほんの一部にすぎません。傘が、雨具といった道具がいかに人間社会にとって有害なものなのか、読者の皆様方においてもご理解いただけたかと思います。それでは、こうした数々の不都合を、私たちはどのようにして乗り越えればよいのでしょう。

 

 解決策は一つしかありません。すなわち、雨の日は家から出なければ良いのです。

 

 わたしたちは多くの場合「家」と呼ばれる建物をねぐらにして生活しています。家はわたしたちにとって非常に重要な存在であり、地理的、社会的帰属意識の源となります。一戸建てやマンション、アパートなど、家のかたちは様々ですが、どれも基本的な機能として「雨風をしのぐこと」を持っています。しかもその機能はきわめて堅牢で、よほどの大雨や強風が襲わないかぎり、わたしたちは快適な空間を享受することができます。こうした高い防雨機能を備えた「家」を生活の基盤としながら、傘という脆弱な「雨除け」に頼らざるを得ないのは、ひとえに雨の日でも登校・出社を強いる社会制度に問題があるといえます。雨の日でも通常どおり社会生活を行わせる現行の社会制度は、雨が降っていても通常どおり支障なく通勤通学ができるインフラストラクチャを想定しています。だってそうでしょう。雨が降っている日に、まったく防雨対策をせずに通勤したとしたら? あなたのオフィスにビチョビチョ男が訪れることを想像してください。彼が取り出す書類は、あまねく湿って、裏が透けて見えます。彼がラップトップのキーボードを叩くたびに、水滴が基盤に染み込み、コンピュータは悲鳴を上げます。もっともそうなる前に、雨が降りしきる外界から隔離され、エア・コンディショナーによる空調制御を十分に満喫しているあなたのボスは、水滴とともに「外界」を建物の内に招き入れるビチョビチョ男に激昂することでしょう。このビチョビチョ男は極端な例ですが、傘や合羽などといった、不完全でしかありえない雨具にしか頼るすべのない現代社会では、程度の差こそあれど、こうしたビチョビチョ男を生み出す危険性を、雨が降るたびにはらんでしまうのです。

 聡明で勤勉な読者の皆様方におかれては、こうした考え方もあることでしょう。「なるほど、このたびのパンデミックでオンライン・出社やオンライン・授業が普及したこともあるし、雨の日はこうして業務を遂行すべきなのだな」と。しかしそれは大いに誤りです。雨の日に仕事をする、授業を受ける、そんな愚かなことをどうしてすべきなのでしょう? 晴れの日と雨の日では、晴れの日の方が多い以上、雨の日はある種「異常」な日です。こうした異常の日にあって、通常通り業務を遂行してしまっては、異常に失礼といったところでしょう。とにかく、雨の日は仕事をしない、そう余裕のある選択ができない限り、わが日本社会はこのままずっと傘と降雨にとらわれて、低い生産性に甘んじることしかできないのです。これは決してわたしが怠惰であるとかではなく、現代社会に欠けている、おおらかさと余裕を取り戻すための提言なのです。

 

いろいろなことを書き連ねていたら、字数が3000字に及びました。これでは下手なレポートより長いではないですか! ともあれ、上で説明のとおり、傘は単に不便な「雨具」であるだけでなく、われわれ人間社会にも多大なる害を与える、看過できない道徳的脅威なのです。