除目日誌

たのしい毎日

自己と非自己のさかい目で──「わたし」は誰?

パスコに「たっぷりホイップあんぱん」

www.pasconet.co.jp

という商品がある。これが、少し前までパッケージに描かれているあんぱんに、可愛らしい顔が描かれていたのだが、最近パッケージデザインはそのままに、顔だけなくなってしまった。

 

人格がなくなってしまった。

単に「パッケージから顔のイラストがなくなった」という情報から受け取る喪失感よりも、大きな喪失感を感じる。人間という生き物は通常、顔からかなり多くの情報を受け取っている。可愛らしいキャラクターのパンが、ただの食べ物に成り下がってしまった。

 

ところで、だ。どら焼き*1という、食べ物がある。Wikipediaによれば、「通常、やや膨らんだ円盤状のカステラ風生地2枚に、小豆餡を挟み込んだ膨化食品和菓子

ja.wikipedia.org

とある。わたしたちが想像するどら焼きも、概ねこの説明に合致するものであろう。

 

あんぱんと、どら焼き。

 

生地も、構造も、厳密には異なる。

しかし、両者を隔てる、言語的、感覚的な壁は──おそらくわたしたちが考えるより──かなり低く、曖昧なものである。

どちらも小麦で作られた生地で、餡子を挟んだものである。菓子なんだか、主食なんだかよくわからない立ち位置も似ているし、生地とともに主役を担う餡子は、彼に隠されて表に出ない。

 

どら焼きか?あんぱんか?

 

そもそも、どら焼きもあんぱんも、それぞれが抱えるアイデンティティに深刻な課題を抱えている。

 

まず、どら焼きである。「形が似ている」程度で銅鑼の名を借りるのは、いささか傲慢ではなかろうか?銅鑼といえば、ものすごく大きい音の出る、中国の楽器である。対してどら焼きである。果たして貴様に、でかい音が出せるとでもいうのか?あんこがぎっしり詰まった、ふかふかのカステラ生地では、出る音も出ない。どら焼きを食べるときの擬音は何か?せいぜい「モショモショ」である。モショモショ!本家はすごいぞ、ドォぉぉぉぉンである。身体の芯まで震え上がらせる、力強い音。どら焼きにそこまで力強いイメージがあるか?というかそもそもどら焼きの生地はどらではない。どらによく似た形状を持つ小麦粉でできた生地である。「よく似た」という部分を省略してはいけないのである。これは「大豆(遺伝子組み換えでない)」の「(遺伝子組み換えでない)」と同じくらい意味的な重要性を持っているのである。

 

あんぱんもあんぱんである。だいいち「たっぷりホイップあんぱん」である。商品説明には、「ホイップクリームたっぷりが嬉しい!」とある。餡子が主題であるべきであるあんぱんにおいて、うれしさを最も多く獲得すべき主体は餡子でなければありえない。それをホイップクリームなどという存在に奪われて、餡子の面目は丸つぶれである。あんぱん。日本を象徴する餡子と、舶来ものであるパンの融合、明治時代に生まれた彼は和洋折衷の、文明開化の象徴として、天皇にも献上されるほど悠々と歩んでいたのに!ホイップクリームである。プライドはずたずた、体制崩壊、内政は混乱である。桜を背負うパンであるが、母である洋の圧に簡単に負けてしまった。

 

いずれもおいしいが、しかし深刻な言語的、象徴的課題を抱えている、しかしおいしい。おいしければよかろう、それがどら焼きなのであろう。

*1:伏見にある「くろーばー結び」というどら焼き屋によく行きます